ドイツ経営学方法論 1950年代以前(大学三年時のゼミ論)

 大学三年時のゼミ論(鈴木英壽先生ご指導)を偶然見つけました。「ドイツ経営学方法論(1950年代以前)」です。一部を抜粋して掲載いたします。1950年代までに絞ったのは、大学三年時のため、最新の科学論まで研究しきれていなかったためです(大学三年時のものですので稚拙です。だいぶ背伸びして書いております。事情ご賢察の上、よろしくお願いいたします)。
(卒論は「カール・R・ポパーの批判的合理主義」です。題名が厳ついですが、世の中を批判する学問ではなく、知的な誠実さを説く科学論です。)

ポイント:ホステットラーの見解が確信を持って主張されねばならない、すなわち、「科学に対する標識は、認識の目的の中にあるのではなく、いかに認識が獲得されるかという方法の中にある。科学とは現実考察の特定の方法、体系的な認識行為である」。この言葉は、応用科学の本質を集約したものと言える。けだし、無目的性のみが科学の概念内容に属さず、換言すれば、科学目的のみが科学たらしめるのではなくて、科学が使用する方法が科学を成立させるからである。

「カール・R・ポパーの批判的合理主義」
ポパーは、科学には反証可能性が必要と主張しました。理論は、なんらかの新事実により倒される可能性を残すべきと。
それは、知的な誠実さです。その態度が、科学と似非科学を分けるメルクマールだと。
要は、ドグマに陥らないことが大切

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はじめに

序章 科学論の変貌

第1章   個別経済学における方法問題

1.概念的基礎

 方法とは、「思惟が統一的・法則的様式において、経験資料を論理的に加工する基礎的諸形式であって、その際思惟は、経験的現実の内実が普遍的妥当的に客観に規定される概念とはんだんに到達する。」と定義される。

 科学のテーマは、経験的現実から客観的現実を作り出すことにあり、そして、経験的現実から偶然性を排除し、内的本質性において、より純粋な形式で現実を再現することである。さらに、客観的現実はいかにして把握されるか-いかなる様式で科学にまで高められうるかが問題とされる。

(中略)

2.方法的考察

3.規範的個別経済学

4.実験実証的個別経済学

5.シェーンプルーク説の限界

第2章   経営経済学と価値判断

1.技術論から応用科学へ

 応用科学としての経営経済学の成立がすでに1912年の私経済学方法論争の時期に萌芽を見いだし得るとしても、その科学性の確認は、前述のシェーンプルークによる研究(1933年)を経て、1952年に始まる大規模な第3次方法論争になってようやくなされたものである。
シェーンプルークは、彼のその規範科学の立場から、技術論-所与の目的の際に手段目的関連を研究する学問(シュマーレンバッハ)を、今日では完全に克服されているものとして考察から除外してしまうのである。

 しかし、グーテンベルクの「経営経済学原理第一巻生産論」1951年の発刊から引き起こされた第3次方法論争において、没価値的考察方法の台頭によって、没価値的応用科学としての科学的性質という方法論意識が提供される。そして、技術論は克服されたとするシェーンプルークの説に疑問がなげかけられ、そのシェーンプルーク批判を通じて没価値科学としての応用科学が成立するのである。
技術論の科学性の確認-すなわち応用科学の認知に、第3次方法論争を通じて大きく貢献した人として、カインホルスト、モックスター、ヴェーエの名が挙げられる。ここでは、これら3人の中でも応用科学の科学的研究に先鞭をつけ、同時にこの問題の系譜上の原点を提供したとされるカインホルストの所説を中心に、応用科学の科学性質を考察したい。

2.科学の本質

 カインホルストはまず、科学とはいかなるものであるか、という問題から出発する。そして、次の四つを科学的研究に関する判定基準として確認する。

(1)真理追究の努力(真理性)
(2)この努力の際の方法論的処置、つまりある体系に対して認識を総括し秩序づけること。(体系性)
(3)科学の統一性を基礎づける対象または対象グループとの関連。(対象関連性)
(4)一般妥当性を保持するために、見いだされた認識を基礎づけること。(認識の一般妥当性証明)

 さらに彼は、科学的研究の客観性を問題にする。科学的研究の最高目標をできる限りに全うしようとするならば、すなわち客観的な成果を達成するためには、対象を現実に現れるがままに把握することが必要とされ、従って人と事柄を厳密に区別することが必要である。それ故、主体すなわち認識する自我の認識対象への自己混入は、避けられねばならないのである。また、彼はヴントに依拠し、科学的研究を客観性の程度に従い、以下の3段階に区別している。

(1)外部的現象(事実検査)
(2)内部的現象(原因研究)
(3)実体的意味(意味解釈)

 そして、特に実体的意味を解釈するためには、時間を越えた永遠の領域へ進むことが必要である。そこでは、出来事は高い程度の主観性を示す場合があり、また、その一般妥当性は、個別科学の枠内で必要であるような究極的確実性をもって証明され得ないため、ますます出来事の真理についての疑惑が生じる。

 「自然理性は、確かにそれに授けられた自然的光力をもって世界神秘の深さまで押し進むことができる。しかし、この究極的深さにおいて、この自然理性は、すべてのどんなに明るく放射している合理的証明という確実性の中でも不確実性という神秘的破局をこうむる」、以上の哲学者ぺーター・ヴストの言葉を序言の締めくくりとして引用することにより、カインホルストは、彼の依拠する没価値的(価値自由的)方法論的立場を明らかにするのである。

3.規範-価値判断的科学

4.実践-規範的科学

 カインホルストは、実践-規範的科学の存立可能性の検討に向い、その場合、従来技術論とよばれていた、現実的、具体的目的の実現方法および手段を明らかにする科学の科学性の議論にあたって、マックス・ウエーバーの「仮言的命令」の主張に依拠した。実践-規範的科学は、目的、すなわちその実践規範を評価したり、その目的が唯一の正しい目的であるからその達成に努力すべきであると要請するものではなくて、この目的が経験する一般的価値評価を認識しているだけである。

 目的-手段関連において、目的は判断を可能にする尺度である。そして、それと比べることによって、手段と方法が目標に適合しているかどうか、また、それらの手段と方法が「良い」か「悪い」かが測定されうる。従って、実践-規範的科学の陳述は、結局のところ価値判断である。しかし、このような応用科学の意味における規範的考察は、科学材料の境界設定にのみ関係し、信条的価値判断を前提とせぬ、まったく価値自由な考察である。

5.応用科学と規範科学

 応用科学の没価値性(価値自由性)は、規範科学との対比によって、特に明確に考察が加えられよう。応用科学と規範科学は共に、ある種の規範と関係するので混同しやすいが、次に述べるように、価値判断を異にすることによって明確に区別され得る。応用科学のそれは仮言的価値判断もしくは認識的価値判断であり、基本規範たる実践的目的が現実に経験する一般的価値評価を認識しているだけである。従って、仮言的判断としてのその学問の判断は事実に即したものであり、その内容に従うと存在確認である。

 結局のところ、認識から仮言的価値判断が成果として供給される。ヴェディゲンは、これについてさらに次のように確認している。「個々の因果関係的認識命題は、その言明がその際ある規範-その妥当性が未解決のままである-に関連するならば、常に価値判断の形態でも言い表すことができる。:『aからbが導き出される』と言う代りに、私は次のように言うことができる:『aがbにとって良いならば、bを欲する者にとってaは価値がある』」。

 しかるに、規範科学のそれは信条的価値判断である。経験を越えた究極的価値を出発点として当為へ指向するのである。

 また、規範の性格も、一方では実践的目的であり、他方では理想である。さらにこの規範の設定において、一方ではその規範は判断すること無しに与えられたものとして受容され、他方ではその規範は客観的に妥当なものとして設定され、その履行が強制的に要請される。さらに価値認識の特性も異なっており、理想的規範は、結局、最高の道徳的価値をめざす。かくて、応用科学と規範科学における価値判断の相違は、応用科学(実践-規範的科学)の意味の規範的考察は、全く価値自由(没価値的)なものであることを明示する。

6.応用科学と純粋科学

 さらに、同じ没価値的考察方法に依拠する純粋科学との対比により、応用科学(実践-規範的科学)の科学性質を、より明確に浮き彫りにしたい。

 没価値的考察方法においては、その課題領域を経験の範囲にとどめ、その認識をあくまで現実の確認に終始する。そして、経営の経済的、社会的、技術的側面(混沌たる現実)を包括的に一つの認識対象とすることは、それぞれの認識目的が異なるため不可能とされる。それ故また、経営は経済単位であって社会単位ではなく、経営経済学は経済科学に属するのである。

 純粋科学はかかる認識態度を徹底させ、認識は目的に対する手段としてではなく自己目的として追求される。経営経済学の領域では、認識のための認識努力が必ずしも無意味ではないということは、グーテンベルクの研究によって示され、経営経済学の純粋科学としての成立を否定しえないであろう。

 純粋科学は、外から置かれた目的の達成に対するすべての可能な経済的処理を排除し、認識を目的に対する手段としてではなく、自己目的として求めることによって、科学性を獲得する。

 純粋科学においては、無目的性が科学の標識とされているが、ここに、純粋科学の過大評価が存する。けだし、無目的性は純粋科学の標識ではあるが、科学の標識とはいえないからである。

 応用科学が目標とする実践的目的のために、多くの側面から、応用科学は要するに科学ではないという主張がなされてきた。この見解は(実践的な)無目的性が科学の概念内容に属するという見方に基づくものである。

 しかし、ここでホステットラーの見解が確信を持って主張されねばならない、すなわち、「科学に対する標識は、認識の目的の中にあるのではなく、いかに認識が獲得されるかという方法の中にある。科学とは現実考察の特定の方法、体系的な認識行為である」。この言葉は、応用科学の本質を集約したものと言える。けだし、無目的性のみが科学の概念内容に属さず、換言すれば、科学目的のみが科学たらしめるのではなくて、科学が使用する方法が科学を成立させるからである。ここに、没価値的な応用科学の科学的な根拠が存している。

7.結論

 カインホルストは、経営経済学の規範-価値判断的研究者の研究を批判することを通じて、経営経済学における独断的価値判断を否定する。すなわち、経営経済学も、その考察において価値判断自由でなければならないのである。というのは、規範-価値判断的学問としての経営経済学は、なんら科学的認識を提供することができずに、合理的証明から遠ざかる信条を提供するからである。

 そして、彼はその科学理論的議論を通して、規範-価値判断的問題設定は完全に科学的取扱いを可能にするということを明らかにし、応用科学としての経営経済学を方法論的にも内容的にも一応方向づけた点で、伝統哲学に依拠しているという限界を有しているとはいえ、現代の「経営経済学における科学的目標と研究構想」または「経営経済学における科学目標と科学見地」の枠組み形成に対して、問題系譜上の出発点ともいうべき重要な貢献を果たしたのである。

結び

 1950年代の末には、長かった第三次方法論争は、没価値科学としての応用科学の確立という成果を残しておわりを告げ、未だ有効性を失うことのないシェーンプルークの研究成果を基礎に、多くの実り豊かな方法論的研究を加え、方法論研究における一つの頂点に達したのである。

参考文献

  • 『経営経済学と価値判断』(カインホルスト著、鈴木英壽訳、成文堂、1979年)
  • 『ドイツ経営学の方法』(鈴木英壽、成文堂、1959年)
  • 『シェーンプルーク 経営経済学』(シェーンプルーク著、古林ら訳、有斐閣、1970年)
  • 「応用科学としての実践ー規範的経営経済学ー」(鈴木英壽稿、『国民経済誌』142巻、p19-35、1980年)
  • 「経営経済学方法論におけるF.シェーンプルーク説の位置づけ」(鈴木英壽稿、『早稲田商学』220・221号、p49-68、1971年)

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